やわらか投資道

やわらかとうしみち。投資に関する考えを自分なりにまとめていくブログです。
テクニカルトレーダーの誤謬4

よく使われるテクニカル指標の中にはしばしば実際の需給状況から見れば全く買いが有利でないときに買いのシグナルを出し、売りが有利でないときに売りのシグナルを出すものがある。
テクニカル指標のシグナルが裏切られたときテクニカルトレーダーはそれを「だまし」と呼ぶが、真に合理的なテクニカルトレーダーからみればそれもまたひとつのシグナルに違いない。

市場が発する有益なシグナルを得るために一体どうすればよいのだろうか。

私はこれまでテクニカル指標を用いて有益なシグナルを得ようとする代わりに、価格や出来高推移から自分にとって不要なノイズを避けることにひたすら力を注いできた。ノイズとは簡単に言えば自分より短い時間枠で売買する人たちによって表れる株価変動である。このノイズを避けることが結果的に自分より長い時間枠で売買する人たちによって表れる株価変動、すなわち有益なシグナルを得ることになると私は信じているのである。

ノイズを避ける上で留意すべきことは、投資期間と値幅と資金量の関係である。チャートにおいて、投資期間は横軸の時間、値幅は縦軸の価格、資金量は出来高として表される。これらはお互いばらばらに成り立っているのではなく密接に関係している。
なぜなら、あるトレーダーの売買する時間枠が決まれば、目標とする利食い幅と許容できるストップが決まり、利食いとストップの幅が決まれば投資効率の面から投入資金量がおのずと決まるからだ。

一般的に投資期間が短ければ短いほど利食いやストップの幅は狭くなる一方、投入資金量は大きくなる。投資期間が十分長いときに期待できる利益率に合うよう、投資期間が短い時の投入資金量が調整され、長期間で見た場合の両者の利益率はだいたい同じくらいになると考えるのが妥当ではないだろうか。もしどちらかの取引が著しく有利な状況が続くなら、より多くのトレーダー参入を促し、いずれそのような偏った状況は修正されることになるだろう。

多くのヘッジファンドが大きなレバレッジをかけて日計りや数日単位で売買をしているが、彼らが大きなレバレッジをかけるのは戦略というよりはむしろ成果を求められる投資期間があまりにも短いために十分な利幅が望めず、したがって大きなレバレッジをかけざるを得ないというのが本当のところではないだろうか。

各時間枠のトレーダーの標準的な投資期間、投入資金量、影響値幅の関係をまとめると下図のようになる。


以上の関係を踏まえた上でどのように自分にとってのノイズを避けて有益なシグナルを得たらよいのか。これまで述べてきたことと重複するが、私は下記の3つの単純な原則に従って相場を見ている。

原則1−より大きな量をより長く保有できるトレーダーが相場の方向性を決める。
原則2−短期のトレーダーほど大きな量を保有する。
原則3−短期のトレーダーほど時間と値幅に制約がある。


原則1はシグナルである。シグナルは後から振り返ればいつでもはっきりわかる。しかしそれは後知恵であって、シグナルとなるトレンドが発生した時点においてはシグナルらしきものはノイズの中に埋もれてはっきりとは見えない。私たちはいつもそんな不確実な状況の中で判断を下さなければならない。

これに対して原則2、3はノイズのことを指している。短期のトレーダーは大きな量を保有して相場に影響を与えるがチャートの横軸である時間も縦軸である値幅も長くとどまることができない。

例えばある価格帯で大きな出来高が成立したとする。ここには様々なトレーダーの売買が介在しているが、間違いなく大きなレバレッジをかけた多くの短期トレーダーの売買も含まれている。その後、狭い値幅で長期間持合いが続いたとする。持合が長く続けば続くほど、短期のトレーダーは自分たちの時間枠で半自動的にタイムアウトしてしまうか、さもなくば時間枠内で反対売買して他の銘柄や新たな機会へと居場所を探しにいくことになるだろう。
また、大きな出来高が短時間にかつ大きな値幅を伴って成立したとする。短期のトレーダーの利食いや損切りの幅は狭いのでそれらが次々にヒットしていく。大きな動きが収まったら、もう彼らがそこにとどまる理由はなくなってしまう。

彼らの多くが相場から去った後に残るのは、より長期のトレーダーのポジションだ。もしこのようなポイントで上手くノイズを避けてポジションを取りそれを維持することができたら、有益なシグナルを受け取れる可能性はぐっと高まる。それは必ずしも彼らと同じ方向にポジションとることにならないかもしれないが、仮にストップがついたとしてもそれはそれで有益なシグナルなのである。ここにノイズを避ける大きな意味があるのだ。

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テクニカルトレーダーの誤謬3

(参考図書)
生き残りのディーリング決定版 矢口 新

| にこりっち | 売買法考察 | 21:11 | - | - | | ログピに投稿する |
テクニカルトレーダーの誤謬3
投資期間と資金量が相場に影響を与えるという考え方は、矢口新さんの「生き残りのディーリング」という本の中に繰り返し出てくる。私はこれに、ポジションの状態という第3軸を加えて相場を読まなければならないと思っている。

ポジションの状態つまり、勝っているのか負けているのか、含み益が増えているのか含み損が増えているのか、あるいは含み益が消えつつあるのか含み損がチャラになりそうなのか。その状態によって人の心理は変化し、意思決定に変化をもたらす。人間がいつも合理的でないならば、時折なされる非合理的な意思決定が市場に歪みを与えると考えるのはごく自然なことだろう。

市場における非合理的な行動はすでに語りつくされている。もっともポピュラーなのは利益の喜びより損失の痛みの度合いの方が大きいというプロスペクト理論だろうか。いずれにしても、様々な研究成果によって、各種の行動バイアスがどのようなものかはほぼ分かってきている。問題はそれが市場にどのような形で表れるかだ。

ここで物事を結果から帰納的にしか追わない人たちは、市場に大した影響も与えない大衆のポジションと心理を探るだろう。しかしこれまで述べてきたように、市場に影響を与えることができるのは長い投資期間の大きな資金量をもった人たちであるはずである。長い期間にわたって大きな量を保有する人たちのポジションが今どのような状態にあるのかこそ重要なことだろう。

標準的なテクニカル指標はどれもこれまで述べてきた市場の歪みの原因となる要素が全く考慮されていないし、そこから読み取ることもできない。例えば、よく使用される移動平均線はパラメータ期間の平均コストを表して言われるが全くの誤謬である。

いったい誰が上がっても下がっても毎日終値で同じ量だけ買い続けるというのだろうか。おそらく移動平均線は誰の何のコストも表していない。毎日の異なる出来高が示すように、市場参加者のポジションやそこから生まれる心理状態は一様ではなく、平均や標準偏差といったものでは捉えることなどできないだろう。

買われすぎとはいったい誰が、いつ、どのくらい、どんな状態で、買いすぎたのだろうか。どんなに複雑なテクニカル指標もその問いに答えてくれないのだ。

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テクニカルトレーダーの誤謬1
テクニカルトレーダーの誤謬2

(参考図書)
生き残りのディーリング決定版 矢口 新
| にこりっち | 売買法考察 | 12:33 | - | - | | ログピに投稿する |
テクニカルトレーダーの誤謬2
市場に歪みをもたらす要因として2つ目に考えられるのは市場参加者の資金量の違いだ。

そもそもお金というものは、ごく少数の者が富のほとんどを所有し、その他の多数の者が残りのわずかな富を分け合っているという否定しがたい事実がある(パレードの法則)。市場における少数派は企業や団体ということになるかもしれないが、その構図は変わらないのではないだろうか。

このような歪み(非対称性)は市場にどのような影響を与えるだろう。

市場において大きな資金量が投下された場合、あるいは引き揚げられた場合、それはそのまま需給の変化をもたらす。投資期間が長いほど相場に影響を与えたのと同じように、資金量もまた大きいほど、大きな需要や供給という形で相場に影響を与える。そしてそれはごく少数の人たちの意思決定によってなされる。

よく大衆のポジションを読んでその逆をやれば勝てるというようなことが言われたりする。しかしこれは捉え方が全く逆さまなのではないかと思う。
常に負けている大衆の逆をやれば勝てるようになるという理屈は一見説得力があるように思える。しかし、資金量の面から見れば、小さな資金量しか持たない多数派たる大衆は明らかに相場に影響を与える側ではなく影響を受ける側である。

大衆がどれだけ欲張りに買っていても少数派が買い続ける限り相場は上がり続けるし、大衆が恐怖で投げ売っていても少数派が同じく売り続けて買いに回らない限り相場は下がり続ける。それは全く物理的な現象である。

おそらく大衆の行動が相場の方向性を決めるようなことはないので、そのポジションを読むことも一般に言われているほど重要ではないのだと思う。相場を読む上で本当に重要なのはむしろ少数派のポジションであり、大衆心理化した少数派の行動なのだと思う。

相場に決定的な影響力を与えられるのはあくまでも資金量の大きな少数派であって、資金量の少ない大衆はその影響を受けて結果的に反対ポジションをとらされ負けることが多いだけに過ぎない。この因果の関係を取り違ってはならないと思う。

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テクニカルトレーダーの誤謬1
| にこりっち | 売買法考察 | 20:05 | - | - | | ログピに投稿する |
テクニカルトレーダーの誤謬1
 前記事「安心と安全」の中で考察した非対称性が相場の中ではいたるところに見られる。人間の本能がそのまま発揮される市場においてそれは当然のことかもしれない。

株価は多くの人が認めるように合理的などではなく、ファンダメンタルをそのまま反映しない。収益の面から考えれば明らかに高すぎる値がついたり、逆に安すぎるな値がついたりしている。それは非合理そのものである。

テクニカルトレーダーはそのような市場の非合理性に気づき、それを自らの収益に繋げようと考えた人たちとも言える。しかし彼らの多くがそれをあまりにも合理的に扱おうとした結果、市場の非合理性の度合いはますますひどくなってしまたように感じる。ここではそれをギャンブラーの誤謬に倣ってテクニカルトレーダーの誤謬と呼ぶことにする。

非合理性の根源は何かを問うことは、様々なテクニカルをどのように設計しまた扱うかということに不可欠なことであると思うが、そのような考えもなくただ過去の検証において上手くいったという理由だけでとシステマチックに用いるのは非合理的なアプローチでしかないように思う。

私は市場のゆがみ(非合理性)の主な要因は下記の3項目に集約されると考えている。また、これらは多くのテクニカルトレーダーに根本的に欠けている視点ではないかとも思っている。
1.投資期間
2.資金量
3.ポジションの状態

一つめは市場参加者の投資期間の違いによる歪みである。ときどき株式市場はゼロサムゲームという人がいるがそれは明らかにおかしい。ゼロサムゲームとはある限られた期間における参加者の利得の総和がゼロになるということだが、それが成り立つのはすべての市場参加者の投資期間と想定する期間が一致する場合だけだ。

仮にすべての市場参加者がデイトレーダーであれば一日の終わりの利得の総和はゼロとなりゼロサムゲームになるが、実際の相場ではありえない。日計りのデイトレーダーの売り物を2、3週間の投資期間のスイングトレーダーが買い、別のスイングトレーダーの売り物を2,3ヶ月が投資期間であるポジショントレーダーが買う。そしてまた別のポジショントレーダーの売り物をデイトレーダーが買うといった具合だ。

それがいったいどのような意味をもつのか。もちろんそのような前提におけるある限られた期間の利得の総和はゼロにはならない。でもそれ自体あまり意味があることではない。より重要なのは自分たちより長い時間枠で売買する人たちが自分たちの時間枠における売買に影響を与えるということだ。

もう少し詳しく説明すると、たとえばしばらくレンジ相場が続くとする。レンジの下値では決まって買いが入り、上値では売りものがでてくる。それを何回も繰り返していると、そのレンジ内の相場はまるでゼロサムゲームのように思えてくる。でもそこには必ずその期間よりもずっと長い期間で売買する人たちが介在している。やがて買いか売りかその人たちがネットで多くベットした方向に株価はブレイクすることになる。

レンジ期間よりもずっと長い時間枠で売買する人たちはレンジ内の短い時間枠で売買する人たちよりも長く買い持ちあるいは売りもちすることによってレンジ内の需給を変化させ株価をレンジ外に押しやる。短い時間枠で売買する人たちもレンジ内の需給を変化させるがレンジ内で反対売買をしなくてはならないため、長い時間枠で売買する人たちがレンジ外に株価を押しやらない限りレンジ外の需給に影響を与えることはできない。

市場参加者の投資期間の違いによってこのような歪が常に生じている。デイトレーダーはスイングトレーダーの影響を受け、スイングトレーダーはポジショントレーダーの影響を受けている。言うまでもなくトレンドにより影響を与えるのはより投資期間が長いトレーダーだ。よって同じ出来高であってもどのような投資期間のトレーダーが売買したのかがより重要になってくる。
| にこりっち | 売買法考察 | 12:49 | - | - | | ログピに投稿する |
安心と安全
 震災が起こってからというもの、安心と安全という言葉を聞かない日はなくなってしまった。誰もが今安心と安全を求めている。

でも、安心でいられる状態とは本当に安全だろうか。あるいは安全な状態とは本当に安心できるだろうか。
安心できることをいくら追及しても安全な状態にはならないし、安全な状態は必ずしも安心でいられることにはならないと私は思っている。

なぜなら、安全とはいつでも一定の客観的合理性で推し量れるものであるが、一方の安心にはそのようなものがなく、ただ人間おのおのの感情的で非合理的な欲求の表れでしかないと思うからだ。

原子炉でも津波堤防でも、世の中のあらゆる構造物に絶対安全なものはない。それらは、あくまでも確率的に安全なものであって、経済的合理性を考慮して設計がなされた結果のものにすぎない。
もし、人々が安心できるものが絶対に安全なものでありそれを求めるならば、確率的にそれは設計できないし、無理やり形にすれば果てしなくコストがかかるものになってしまう。

このような合理的な安全と非合理的な安心という非対称性が、今回の地震で顕在化したような不確実性を増大させてしまってはいないだろうか。

絶対安全なものを造ること以外に人々が安心できる方法がもう一つある。それは、絶対安全でないそれを、絶対安全だと非合理的に思い込むことである。
ここに、「原子炉は絶対安全だ」という造り手側のウソと「国や東電が絶対安全だといってるから安心だ」と思い込もうとする受け入れ側の心理的なインセンティブが一致することになる。

原子炉に反対する人たちもまた本質的には同じである。安心できないから絶対に安全でないものは絶対に反対と感情的に訴えてみても安全なものは造れないし、ますます不安を増大させる環境を広めてしまうだけである。
絶対に安全なものや安心できるものなどこの世にはないと受け入れることで初めてより安全な環境は造られていくのではないだろうか。

私たちの視野の外にあるような不確実性を確率的にいかに小さくしていくかという視点がより安全なものを造る上では欠かせない。それが、安心したいという目的のためだけであってはならない。
不確実性は生きていく限り避けられないものである。しかし、それを感情的にではなく合理的に受け止めることで、その出来事による影響を小さくすることは可能なはずだ。

(関連記事)
人々が作り出したブラックスワン

(参考図書)
アニマルスピリット
ジョージ・A・アカロフ,ロバート・シラー
| にこりっち | 確率的思考 | 10:03 | - | - | | ログピに投稿する |
人々が創り出したブラックスワン
震災から明日で一ヶ月目を迎えようとしている。
ブラックスワン−人々が予測できる領域の外側で起こる稀であるが影響度のとても大きい出来事−確かにそれは起こった。誤解を恐れずに言えば、あの日大津波が来て一度に何万人もの命を奪ったことと、その後数日のうちに株式市場において起こったこととは本質的に同じことであったと思う。

震災の後の悲惨な状況を前にして、原子炉や津波堤防の設計あるいは避難計画といったものをもっと高い津波を想定して行うべきであったのではないかと盛んに言われるようになった。確かにそのとおりかもしれないが、すべては事が起こった後の後知恵バイアスである。今回の災害が起こる前の時点で、はっきりとした形でそのリスクを予見できたかと言えばそれはできなかった。だからこそ、深刻な事態は起きてしまった。根本的に考え直さなければならないのは、私たちのそういった習性や態度そのものなのではないだろうか。

つまりそれは、人間が具体的に起こりえると予測できることと、実際に起こりえることの間には慢性的な乖離があって、それが結果的に今回のような非常に大きな災害(ブラックスワン)を招いてしまっているではないかということだ。
もしそうであるなら、将来何が起こるのかを具体的に予測することに力を注ぐことは、必ずしも将来の不確実性を減らすことにはならない。絶対的で具体的な予測やそれに基づく対策というのは、その他の可能性を闇に葬ることになり、かえって将来の不確実性を増し、仮にそれが起こった場合の影響の度合いをも大きくしてしまうのではないだろうか。

堤防の高さは考えられる最大の津波の高さ以上にしているから大丈夫、原子炉の電源は3系統用意してあるから仮に外部電源が絶たれても大丈夫、もし万が一炉心溶融が起こっても最後は鉄の格納容器があるから大丈夫、・・・。そうやって本来は不確実性を減らすためになされたことのひとつひとつが今回の危機をより深刻なものにしてしまっているというのは言いすぎだろうか。

何メートルの津波が実際に来るかはわからないが、何らかの原因で堤防を越えて津波がやってきた場合に対応できる都市計画や防災対策、何らかの原因で原子炉サイト内の電源系統がすべてダウンした場合の対策、万が一格納容器から汚染水が外に漏れ出たときの措置等、あらゆる計画や設計思想の中にそのような自分たちが具体的に想定できる範囲の外側にあるものを受け入れる余地がわずかながらでもあったなら、震災による影響は現状とはかなりちがったものになっていたのではないだろうか。

今回の震災によって、今後様々な具体的な対策が採られることだろう。しかし、私たちは現時点において確実に想定できるだろうと思うことにいくら時間やお金を費やしても、本当の意味の不確実性を減らすことにはならない。少なくともそれには限界があること認めなければならない。
そうでなければ、ブラックスワンはまた私たちの知らないどこかで生まれ、ちょうど忘れかけたころに予期せぬ形となって現れてしまうのではないだろうか。

(関連記事)
帰納の問題

(参考文献)
ナシーム・ニコラス・タレブ
| にこりっち | 確率的思考 | 16:41 | - | - | | ログピに投稿する |
不満足トレード
多くの場合、正しい売買は常に負けが先行する。そして、結果的に負けの数が勝ちの数より多くなる。

行動心理学の研究によって人間は利益による喜びよりも、同じ額の損失による痛みの方が強く感じられることが分かっている。その度合いは研究成果により、2倍とも2.5とも言われている。
したがって、たとえ最終的な利益が損失の額の2倍になったとしても、人間は心理的に十分な満足をえられないことになる。いくら損小利大を実行しそれが達成できたとしても、先行して積み重なる数多くの損失による痛みを、遅行して達成される数少ない利益による喜びで埋め合わすことができないのだ。

しかし、このことが市場に大きな歪を与えることになる。

人間は心理的な満足を得るために相場のある局面で利益を追求するのではなく、損失による痛みをひたすら避けようとする。つまり、今にも損失に変わってしまいそうに見える目の前の小さな含み益の利益を確定させる一方で、含み損になってしまったものは放置またはナンピンして再び含み益に変わるのを願うようになる。多くの場合それは小さな損失や利益で終えることができるかもしれない。そしてたとえ最終的な収益がトントンであってもこのような経過を辿れば目的の満足を十分得られるはずだ。なぜなら、実現するかもしれなかった大きな痛みを伴う損失を避けられたからだ。(大きな含み損を抱えた時点を基点にするならすべての結果はプラスになる。)

でもその満足トレードはたまにやってくる大きな損失をたぶん避けられない。正確には、満足トレードが招いた大きな含み損を実現化せざるを得ない状況にいつか陥ってしまうだろう。その時、反対側にいる不満足トレードの人達は大きな利益を手にすることだろう。

相場のエッジとはこのように表現すればとても簡単なことだが、それを自分のエッジとすることはとても難しいことだと思う。

上手くいくトレードはいつも自分が望むほどには自分を満足させてくれないし、(損失が利益より先に実現化されるという点において)上手くいってるようにさえ見えないときもある。もし満足することを求めるなら、その上手くいくトレードを手放さなければならない。両者はそんなトレードオフの関係にある。目の前のトレードが結果的に上手くいくために、今満足できないことを私たちは受け入れられるだろうか。
| にこりっち | 思考・心構え | 18:46 | - | - | | ログピに投稿する |
無作為は最高の作為
 『無作為は最高の作為である』

どこかで聞いたこの言葉をとても気に入っている。皆が必死で何かを為そうと躍起になっている相場において、あえて何かを為そうとしないことは立派な作為でありひとつの戦略である。

しかしながら、何も為さないことは何もしないこととは違う。もし本当に何もやらないならば、人間は勝手に考え始め、ありとあらゆる作為を講じてしまうだろう。

例えば、直近のトレードの結果から新たなトレード法を思いついてみたり、ランダムに過ぎない値動きから意味のあるチャートパターンを読み取って確信的なトレードを行ってしまうだろう。また、気まぐれなニュースや人のうわさをつなぎ合わせて物語を作り始めるかもしれない。
そうやって目の前に並べられたありとあらゆる情報から無意識のうちに自分にとって都合のよい因果だけをひたすら抽出しては策を講じていくのが人間というものなのではないだろうか。

無作為であるためには、こういった人間の本能と常に戦い続けなければならない。何もしないためのルールをつくり、ルールを遂行するための心の平安を保ち、多くの退屈な時間をやり過ごさなければならない。

相場で何かを為すことは、為さないことに比べたらはるかに楽なことなのではないだろうか。

明日相場でできるだけ何もしないことを喜んで計画する人や、目の前で自分の利益が急減するのを見ながら平静でいられる人はどれだけいるのだろうか。

何かを為せば今よりうまくいくと考えるのは、慢心した人間のおごりなのではないだろうか。おそらく多くの人の勘違いのおかげですでに相場は何かを為してしまっているのである。あとはそれをただ受け取るだけで本当はよいのではないだろうか。

(関連記事)
何も知らないこと、何もやらないこと
| にこりっち | 思考・心構え | 21:07 | - | - | | ログピに投稿する |
ジャッジしない
 『確実』とは、確率的に表現すればその事象が実現する場合の数が一番多いことで、『不確実』とはそれがとても少ないことらしい。つまり、『確実』とは少なくとも確率的な考えでは絶対ではないということだ。

私はそのような確率的な思考のもとで相場についての自らの考えを深めていくうちに、今の自分の考えというものに全く自信をなくしてしまった。

なぜなら、自分が「過去」において自信たっぷりに思いついた相場に関する考えのほとんどが、間違っていたと「今」思えるからだ。
なのに、「今」思いつく相場に関する考えのひとつひとつが、「将来」においても正しく思えるなどと、どうして言えるだろうか。「今」思いつく考えも、やっぱりほとんど間違っているのではないだろうか。

そういう考えに至ってからは物事を安易にジャッジするのをやめることにした。結論はできるだけ先延ばしすることにした。少なくとも確率的に今より有利な判断ができると想定されるくらいサンプルが蓄積されるまでは、ただ事実や知識を記録していこうと思った。

たった一回の売買記録から失敗の真の原因を探ろうなんていうのは野蛮な行為だと思う。それは、100回、200回取引を終えたあとの自分に任せて、今の自分は良くも悪くも確率が正しく発揮されることだけに力を注ぐべきだ。
そのために必要なことは例えば、100回、200回の取引を生き残れるようなルールをつくることであり、ジャッジできる日がくるまでぶれずにたんたんと一定のやり方でやり抜くことではないだろうか。

決して先を急いではいけないと思う。自分を過信したり、不確実性を軽んじてはいけないと思う。そして「今」最も「確か」らしいことは、「今」確率的に最も可能性が高いだけにすぎないことを忘れてはならないと思う。
| にこりっち | 確率的思考 | 20:07 | - | - | | ログピに投稿する |
何も知らないこと、何もやらないこと
1ヶ月半くらい前、ふと思い立ってテレビを見ることをやめた。ついでにブログやネットニュースも極力見ないことにした。新聞はもう2年以上購読していない。私の取引するのは米国市場の米国企業の銘柄なので、取引した後にTIFというティッカーコードが実はティファニーだったと知るようなことはよくあることだ。でもそれ以上その企業について知ろうとは思わない。取引前の準備はそれなりに時間をかけるけれど取引する時間は開始後1時間以内とだいたい決めている。それ以外の時間は相場をほとんど見ない。新規注文は裁量でやるけれども決済注文は機械的にやっている。チャートはどんどんシンプルになった。残ったのはローソク足と3本の移動平均線と出来高だけだ。

私は人間の積極的で前向きな関与が相場をより複雑で困難なものにしているという信念をもっているので、相場に対してはできるだけ単純かつ簡単でありたいと思っている。

でもそれは、複雑な相場を自分の扱いやすいようにパターン分けして単純化することや、逆に複雑なアプローチをすることによって簡単に自分に取り込むことではない。私の言う単純かつ簡単というのはひとことで言えば「相場の複雑さを複雑なものとしてそのまま受け入れる」ということである。それはある意味、相場において何も知ろうしないことであり、何もやろうとしないことだ。

しかしながら人間はいつでも無意味なものに意味や意義を感じたりする生き物である。夢、ロマン、目標、希望、期待、喜び、楽しさ、努力、忍耐、安心、そういった言葉に込められた俗世間的な欲求を満たそうと、ひたすら知らなくてもよいことを知ろうとし、やる必要のないことをやろうとしている。常に創意工夫し、個性を思う存分発揮している。

もしそういった人間の本能的な行為そのものが、相場が複雑であることの原因であるとしたらこれほど滑稽なことはないのではないだろうか。

私はそういうものからできるだけ離れていたいと思う。複雑なものをより複雑にしてしまうような経験なら、できるだけ積みたくない。いらない知識を持ち寄って自己満足に浸る相場仲間も必要ない。
ただ、たんたんと物事をこなしていきたいと思う。自分の知識や成果を高らかに吹聴するより、何も知らないことや何もやらないことを心の中でそっと誇りに思える自分でありたいと思う。
| にこりっち | 思考・心構え | 14:37 | - | - | | ログピに投稿する |
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